お近づき

この度は、当ホームページにお越しいただき、ありがとうございます。

ここでは、お越しいただいた方と語らう気持ちで、私が文章の世界に足を踏み入れたプロセスなどをお話しさせていただければ幸いです。

 

私が小学一年の頃、将来の夢は「コピーライター」になることでした。

テレビっ子だった私は、CMを見ることが大好きで、ある日、父にこんな質問をしたのです。

 

「ねぇ、ここに書いてある言葉って、誰が考えてるの?」

 

すると父は答えました。

 

「コピーライターというお仕事をしてる人が考えてるんだよ」

 

それを聞いた瞬間、私は「そのコピーライターってやつになりたい!」と強く思ったことが、文章の世界に足を踏み入れることとなった第一歩かもしれません。

けれど、どうやってなったらいいのか、具体的な道はわからないまま時は過ぎ、そんなある日のこと。

両親がこんな提案をしてきたのです。

 

「毎日夜8時、アトリエに来なさい」

 

父は工芸作家をしており、母は絵画教室の講師をしていたため、二人には二階建てのアトリエがありました。

一階は父の作業スペースで、二階は母の教室です。

ちなみに、母の絵画教室には壁一面の本棚があり、そこには絵本がぎっしり詰め込まれていました。

小さい頃から一日のほとんどの時間を「待つこと」として過ごしていた私は、その本棚にある絵本を片っ端から何度も何度も読み返し、物語の中に居場所を探していたことも、今に影響しているかもしれません。

話を戻しますが、両親が私に提案してきたことは、毎日夜8時にアトリエで作文を書くことでした。

夜8時というと、ほとんどの子どもは寝支度をするような時間ですが、私の両親は夜型だったため、幼稚園の頃から一緒に徹夜をすることに慣れていた私にとって、8時はまだまだ稼働時間です。

そして、一日にあったことの中で印象に残ったことを文字に書き表したり、父や母が投げかけてくるテーマをもとに詩を書いたり、そうして数年の月日が流れ、いつしか私は、目につく景色や光景や出来事を文章に表すことが当たり前の日常となりました。

 

ある時、図工の時間に手作り絵本を作るという課題を与えられ、創作した物語がコンクールに入賞したことがありました。

当時、妃殿下だった美智子様に私が作った絵本をお手に取っていただき、「素敵ですね」とお言葉をいただいたことも、子どもながらに自信の一つになったのだと思います。

 

小学校高学年になると、演劇に強い興味を抱くようになりました。

母が若い頃、日活で女優をしていたことから、たくさんの映画や舞台を一緒に観覧する機会があり、どんな台本なのかなと想像しながら鑑賞していく中、自分自身、演じてみたい気持ちに駆られ、五年生の時演劇部に入部したのです。

六年生の時には部長を務め、台本を書いたり演出をしたりもしました。

 

自分の頭の中に思い描く世界を形にしたり、自分とは全く違う人間になりきったり、そうしながら私は自分にとっての「居場所」を探していたように思います。

公の場に書くことではありませんが、私の家庭は複雑な環境でした。

生まれ育った家の中に、自分の居場所を見つけられず、生まれて初めて家出したのは二歳の時です。

誰でもいいから私をさらってほしい。

不謹慎ですが、誰かに誘拐してもらいたい。

そんな気持ちで夜道をさまよいました。

幸か不幸か、祖母に見つけ出され、激しく怒られたのは言うまでもなく。

 

そして、小学校卒業と同時に、北海道の寮に入りました。

親元を離れ、遠く離れた地で自分の居場所を探す思いでした。

けれど、集団行動が苦手だった私は寮という環境になじめず、半年ほどで帰郷。

自分の居場所は、物理的な距離や環境変化で見つけられるものではないのかもしれない。

その時の私はそう感じたのです。

 

地元の中学に編入したのち、近所の量販店で売っていた一万円のワープロを買ってもらい、それで詩や物語を創り、時には学校を休んで書いていたことも。

物理的な場所の中に居場所を見つけられないのであれば…と、白い紙と向き合い、その中に自分の世界を作ることが生き甲斐のように感じていたのかもしれません。

 

そして、中学三年になった時のこと。

文化祭で自主制作映画を作ることが決まり、私は脚本と演出を担当しました。

書くことが好きだということを、クラスの子たちも知っていたため(全員ではありませんが)、自然な流れで決まったように記憶しています。

そこからの数ヵ月間は、ノートにひたすら脚本もどきを書き殴り、教室でも塾でも家でもずっと書き続けました。

インターネットも普及されていない時代、見よう見真似すらできず、プロたちがどうやって書いているのかを頭の中で想像し、シーンのカット割りや登場人物のキャラ設定を必死に考えたことは今でも鮮明に覚えています。と同時に、こんな大変なこともう二度とやりたくない!とも感じました。

クオリティはさておき、どうにかこうにか自主制作映画を作り終え、私は燃え尽きたかのようにそれから文章を書くことが減りました。

 

月日は流れ、温かい家庭に憧れていた私は22歳で母となり、その二年後には二人目が生まれ、そして改めて人生について考えたのです。

いつしか「表現すること」から遠のいていた自分と向き合い、今が私にとっての「将来」なのだろうか……と。

子どもはいずれ大きくなる。そして、いつか私のもとから巣立っていく。その時、私にはいったい何が残るのだろう。

次女を背中におぶって買い物へいく途中、ショーウインドウに映った自分の姿を見て、そんなことを考えました。

そして、中学の頃から私の創作したものを読んでくれていた友人に相談すると、「もう一度表現活動をしてみたら?」と背中を押してくれました。

もう一度も何も、スタートラインにすら立っていない状態でしたが、だからこそ、自分に何ができるのかを試してみたい。そんな気持ちに駆られたのです。

 

それからすぐ『デ・ビュー』というオーディション雑誌を買いました。

書くこと、演じること、カテゴリーを決めずに自分が「やりたい」と思う表現活動を探し、ある映画オーディションを見つけました。

それは角川ホラー文庫から出ている高橋克彦さん原作の映画で、岩手県で撮影が予定されているとのこと。

早速、オーディション用紙に記入し、郵送。

一次審査を通過し、自己表現する二次審査では1200人が集まる会場で、自作の脚本を一人で演じました。

緊張しつつも、やれることはやったと思い、会場を出てエレベーターを待っていると、一人のスタッフに声をかけられ、別室に呼ばれたのです。

その部屋には映画のプロデューサーや監督が座っておられ、様々な質問を受けました。

私は、思っているすべてのことを伝え、「これで落ちても後悔はない」と実感したのを覚えています。

すると、プロデューサーの方が私の目をまっすぐに見て、「合格です。がんばってください」とおっしゃいました。

当時、いくつものオーディションをこれでもかと受けていたものの、最後まで通過したのはそれが初めてでした。

後日、東映スタジオで衣装合わせが行われ、そこで台本を受け取りました。

ど素人の私のセリフはたった一行でしたが、スクリーンの中で表現できるよろこびに震えあがると共に、合格したのは私一人だったということを聞き、この上ない自信をいただいた気がします。

そして、岩手県で撮影が開始され、ほとんどの時間を「待つこと」で終えました。

その瞬間、なんだか子どもの頃と変わっていない気がして、これが本当に私のやりたいことなのか、改めて考えたのです。

手にしている台本を何度も何度も何度も読み返し、私の中に決意が芽生えました。

 

「私はやっぱり書きたい」

 

私の思い描く世界を創りたい。

そんな思いが溢れてきて、撮影から帰ってきた翌日から、その台本を見本にして脚本を書き始めました。

脚本だけでなく、絵本、小説、作詞(四歳の頃からピアノを習っていたので)、詩、漫画、ありとあらゆる活字を形に表し、何十社もの作家プロダクションに応募したのち、ようやく一つのプロダクションから電話がありました。

それが、放送作家として私を育ててくれたオフィス・トゥー・ワンです。

作詞家の阿久悠さんが所属してらっしゃる老舗のプロダクションで、数々の経験をさせていただきました。

作家としてデビューさせていただいた番組『奇跡体験!アンビリバボー』では、物書きの軸となるノウハウを現場を通じて勉強させていただきました。

プロの土俵に引き上げて下さった角井プロデューサーは、私の中では"作家界の父"と呼んでも過言ではありません。

 

けれど、所属して五年が経とうとした年、引っ込み思案の次女が尿道炎となってしまい(保育園で「トイレにいきたい」と言えず)、私は悩みに悩み、独立することにしました。

子どもが授かったことで、生きる意味を見つけられたような人生でもあり、まずは子どもを育てることを第一に考えようと思った次第です。

そして事務所を辞めてからは、個人事務所のホームページを作り、主に家でできる広告の仕事を受けました。

キャッチコピー制作や、企業や商品のストーリー創作などに携わり、視聴者ではなく「クライアント」のための仕事に徹したのです。

思いがけず「コピーライターになる」という夢を叶えた私ですが、かれこれ四年が過ぎる頃、初めて書籍の仕事が入りました。

それが、2011年に発売された『ディズニー そうじの神様が教えてくれたこと』です。

チャック・ボヤージンという掃除の神様の一番弟子である元オリエンタルランドの鎌田氏を取材させていただき、本の全体構成とストーリー案のお力添えをさせていただきました。

テレビ界で培ってきたノウハウを全力で注ぎ、その後、ディズニー神様シリーズとなり、それらは累計100万部を超えました。

その時の編集者さんが、私に小説を書く機会を与えて下さり、あれから9年が経った今も二人三脚で本を創っています。

コピーライターになりたい!と願った幼き私の夢を超え、まさか小説を書くようになるとは思ってもいませんでしたが、チャンスの波に身を任せ、とりあえず飛び込み、そして無我夢中で泳ぎ、金魚のようにアップアップと息継ぎをしながらも前進していた結果、かけがえのない居場所と、唯一無二のビジネスパートナーを見つけられたような気がしています。

 

「居場所」とは、物理的な場所であることもありつつ、私にとっての居場所は"物語の中の空間"であると、今は思っています。

 

当時小さかった娘たちは、二人とも成人となり、私のもとを巣立って自立した近年、これからの人生は、「まだ見ぬ誰か」のための『最高の暇つぶし(エンターテイメント)』を創り上げるべく、小説家とかコピーライターとかカテゴリーの枠にはまることなくエンターテイナーとして生きていけたらと考えている今日この頃です。

生まれ育った家庭環境に対する葛藤や、いくつもの心の穴を埋めるべく、そして、誰かの心の穴を埋めるパテとなれるよう、ものつくりに励めればと思います。